朝から衝撃のニュースが目にはいりました。
沖縄にある首里城が火災で焼失してしまったという衝撃的な出来事です。
今朝、下の子が利用している一時預かりの保育園でイベント遠足があるため、
いつもは給食利用ですが、今日はお弁当を作るためにちょっと早起きしていました。
ふと、スマホのニュースを目にしたら、『首里城火災』の文字がとびこんできました。
最初は何かの見間違いかとも思いましたが、
ニュースの記事とともにある写真は、本当に燃えている首里城でした。
ともかく息子のお弁当を作り、いつもよりも早く保育園に送り届ければならなかったため、
まずはそちらをすませることに必死だったので少しの間そのニュースのことは頭から消えていました。
が、たまたま遅い出勤時間の旦那に車で保育園の近くまで送ってもらい、
その車内で突然沖縄を代表するミュージシャンであるBIGINの音楽が流れてきました。
首里城全焼のニュースを悲し気に告げていました。
その曲を聞き、ふいにかつて訪れた沖縄の首里城の姿が頭によみがえりました。
それは、初めて母親と旅行したときのことです。
そして母とみるおそらく最初で最後の首里城になりました。
不仲な母との最初で最後の沖縄旅行

前回、前々回とわたって、バタコの幼少期を少し記事に書き、
そこに母親から虐待を受けていたことを書きました。
そして、そこに「大人になってからは虐待のことを忘れていたが、
結婚し子どもを出産し育児するようになってから虐待のことがフィードバックするようになった」ことを書きました。
そう、大人になってからはバタコは虐待のことをほとんど忘れていたんです。
それは、母親からの提案で「沖縄に旅行に行かない?」というひとことから始まったのです。
当時、バタコは東京で一人暮らしをしていました。
非正規、シングル、貧乏な一人暮らしでしたので、
旅行はおろかちょっとした遊びにもなかなかいくことはできませんでした。
そんな時、母から電話がかかってきて、
「沖縄に旅行に行かない?」と誘われたのです。
正直、それまでは母と二人で旅行に出かけたことはありませんでした。
というか、家族で旅行したことはほぼゼロです。
子どもの頃、両親は共働きでしたし、
そうでなくとも父親は子どもに無関心でしたので
休日にどこか家族で出かけるということはありませんでした。
母は夏休みやゴールデンウィークなど家族連れでにぎわう旅行の一幕がテレビ等で紹介されたりすると
「わざわざ混んでいるところに旅行しに行くなんて馬鹿だ」と必ずいいました。(バタコは決してそう思っていません)
小さい頃は友達の旅行話が羨ましかったですが、
小学校高学年、中学生の頃には、
「うちは旅行にはいかない家なんだ」と当然のように思っていました。
そのことに疑問も感じませんでした。
旅行だけではなく、基本的にバタコにとっては
『家族』という意識が希薄だったように思います。
なので、成人してから親と旅行するなんて思いつきもしなかったので、
母親からの提案はとても驚きました。
「今さら、あまり仲がよくない母と旅行なんて」と思いましたが、
費用などはすべて母親が出してくれるということだったので、
「まあタダで沖縄に行けるからいいか」と承諾しました。
正直、結構、バタコも打算的ですよね(笑)
実は、この沖縄旅行で初めて飛行機に乗ったのです。
いい年しながらかなりドキドキしたのを覚えています。
パック旅行なので、万座毛やかりゆしビーチ、
首里城やちゅらうみ水族館、ひめゆりの塔など沖縄の代表的な名所をめぐるツアーでした。
首里城は2日目に訪れた場所でした。

(※↑画像は火災より前の首里城です)
バタコは、沖縄にはなぜか昔からあこがれがありました。
小学校の時の同級生でお母さんの実家が沖縄という子がいて、
南国の話を聞いたからかもしれません。
また、当時放送された『美味しんぼ』で沖縄をテーマに暑かったスペシャル版を何度も見たりするほど、
沖縄への憧れは強かったです。
美しいサンゴ礁や色鮮やかな花々、そして本州にはない食べ物など、
アニメや本が教えてくれる沖縄はバタコでなくても子どもの憧れをつのるものでした。
中学生の頃に読んだ沖縄の本や、テレビなどで何度もうつされる沖縄の風景をみて、
「いつか沖縄へ行ってみたい」と心に抱いていました。
母親がそんなバタコの気持ちを知っていたのかはわかりませんが、
ともかくバタコは沖縄へこれたことがとても嬉しかったのを覚えています。
首里城も沖縄を代表するシンボルとして、訪れてみたかった場所でした。
思っていたよりも広かった印象があります。
首里城ではパックツアー者向けの写真撮影がありました。
プロのカメラマンさん(たぶん)がツアー旅行者全員を一枚の写真におさめてくれるものでしたが、
バタコも母親もその写真を買いませんでした。
バタコは写真に興味はなかったし、
母親とそれほど仲いいわけではなかったので一緒にうつった写真を買うというのは気はずかしさよりも、
気まずさがありました。
事実、この沖縄旅行では母と写真を一枚もとっていません。
母も写真をとることをのぞみませんでした。
幼少期から適切な親子関係を築けていたとは決していえない、
不器用な母娘の旅する姿は首里城にははたしてどのようにうつっていたでしょうか。
あの日の首里城に聞いてみたい気がしますが、もうそれは叶いません。

燃えてしまった首里城に、母との唯一の旅の思い出に馳せる

(※↑画像は火災より前の首里城です)
今朝、首里城が火災で焼失というニュースを知り、
ラジオから流れる沖縄の音楽を耳にした時、それまで忘れていたはずの母との沖縄旅行のことがよみがえってきました。
虐待されていたことはまた別として、
基本的に幼い頃から母親との愛着形成は不十分でしたので、
バタコは母親に思慕だとか愛情というものを抱いたことはありません。
母親もまた、親としての責任で養育はしていたのでしょうが
子どもへの愛情表現は下手な人です。
が、今から思えば、母はバタコと旅行を一度もしたことがなかったので、
思い出作りにと考えたのかもしれません。
母は年をとり、旦那が旅行にバタコの母親を誘ってはどうかと声掛けもありますが、
母は「年とって遠方への旅行は無理だから行かない」と断固、旅行は拒否します。
なので、母と旅行するのはあの沖縄旅行が最初で最後です。
パックツアーの写真でも、なんでもいい。
首里城の前で母と写真をとっておいたらよかったなと今は後悔しています。
燃えてしまった首里城を見ていると、
なんだか母との唯一の旅行の思い出も消えてしまったようなそんな気持ちにさえなりますね。
午後のニュースで、首里城再建予定とのことを知りました。
首里城がまたいつか復活する日が来たら。
バタコと母親の思い出、関係性も少しは修復されるでしょうか。
そんなはかない期待をこめて、首里城再建を強く祈っています。